カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会

小金井市東町 神の家族がここにある!と実感できるアットホームな教会です

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  • 神を喜ぶ

    2020年1月1日

    ローマの信徒への手紙第5章1節は「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」と記します。わたしたちはもうすでに、神によって義とされている。それは、キリストの血によってなされたことなのです。それならば、神の怒りをおそれる理由は全くない。愛される者の最大の特長は、愛してくれる者をおそれないのです。人からはおそろしがられている父親も、愛を信じている子どもは少しもおそれないで甘えるのです。神によって義とされたわたしたちは、神をおそれる理由が全くなくなった、という一節からの話が後半でまた新しく生きてきます。神に対して平和を得たといえば、もうそれで十分のようです。平和を得たものが、おそれなくなる、この二つは一つのことでしょう。

    十字架の上に死んでくださったキリストは、その死をもって終わられたお方ではなかったのです。この死をとげられたキリストは、よみがえって天に帰り、今わたしたちの内にいのちとして働いておられるお方です。

    信仰は、死で終わるものではありません。信仰において死ぬものは、罪と自我と死そのものです。信仰は人を活かすものです。いのちを与えかつ豊かに与える(ヨハネ10:10)、とヨハネがいっているいのちがなければ、救いはないのです。おそれのあるところにはいのちはないのです。怒りを感じるところにもいのちはありません。平和と愛と和解のあるところにこそ、いのちが溢れるのです。救いというのも、死からの救いです。罪と死との支配から解放されて、今は永遠の生命を与えられている。御子の死によって和解を受けた身です。御子のいのちに生かされるこの生活はゆるぎのないものです。

    そして、最後にもう一度「それだけでなく」(11節)と、パウロは、こういう言葉を積み重ねながら、どんなに喜びに満たされたことでしょう。人間が生きがいを感じるのは、喜ぶことです。真の喜びはどういう種類のものでしょうか。パウロは、神を喜ぶことだというのです。和解が与えられる、平和を保証される、愛を注がれる、それによって得たいのちを、しみじみ確かなものだと感じるのは、神を喜ぶことにあるというのです。神を喜ぶという言葉は、神を誇ると訳すこともできます。御子の死といのちによって与えられた神との和解と平和のゆえに、今は、神のみを誇りとするのです。これほどに、たしかな誇りがどこにあるでしょう。これは心の底からつき上げて来るような、どこからみても誇りとしかいえないような喜びなのです。この罪人がこれを与えられたのですから、この神を喜ぶことがいのちであることが一番よくわかるのです。

    私たちは窓を開いて、霊の注ぎを受け取っていくことに努力したいものです。そのとき、キリストにある神の愛がじんわりと心に注がれる。神の愛が具体的に私のような者にも注がれていることを思い、その神に驚き、その神を喜ぶ歩みをしてゆきたいと願います。