お知らせ
2018年1月1日
主にあって喜ぶ
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」
フィリピの信徒への手紙 4章4節
アメリカの古い信仰の小説で、日本にも訳がある『パレアナ』(ポリアンナ)という本があります。ある貧しい牧師の家庭の娘が、両親が死んで、わずかなものを持って、大変に気難しい未婚のおばさんのところに引き取られる話です。大変厳しいやかましいおばさんで、物はあるのですが屋根裏に住まわされて、普通から言えば何も喜べるものはないのですが、その生活の中で喜びにあふれた生活をして、まわりの人をだんだん感化して行く話です。この娘は亡くなった牧師のお父さんから教えてもらった、喜びの遊びというものを覚えていました。いろいろな時に、その喜びの遊びでいろいろなことを喜びにかえて喜ぶのです。
それは考えてみると、大人にはとてもできないと言う人がきっと多いだろうと思います。しかし、私たちが喜ぶ生活をするのは、本当はそういう喜びの遊び方を工夫することではなくて、それよりも、自分の悲しいと思う生活、苦しくてたまらないと思う生活の中で自分が主によって変えられることです。それがあってはじめて喜びの遊びも、意義を持つのです。主を信じれば喜ぶことができるというのが私たちの信仰生活の仕方です。
主にあってというのは、主イエス・キリストを信じてということなのです。主イエス・キリストを信じるのは、言うまでもなく、キリストの十字架と復活によって救われたことを信じることです。それを信じて生きて行くことです。主にある者というのは、主イエス・キリストを信じて、自分の罪が赦されていることを知り、したがって、罪に邪魔にされて神から遠く離れているのではなくて、神が身近にいてくださるということを信じることができるようになることです。自分のようなものも、罪のある人間だが、罪赦されて神のものになったと確信をもって生きてゆくことができるのです。
人間の生活にはいつもいろいろな変化が起こってきます。それも思いがけない変化が起こってきます。この世の中でいったい、何を信じることができ、何を頼みにすることができるでしょうか。そこからはじめて、神の愛を信じて喜んで生きる生活が生まれてくるのです。この世の中で人間がどんなに力を持っているように見えても、その中で目に見えない神の力が働いて、再び主イエスがおいでになる時に、神の力、神のご計画が成就すると私たちは確信しているのです。
最後にもう一つ、聖書から教えられたいことは、こういう動くことのない喜びはどこに現れてくるかということです。詩編98編にも喜ぶという字がしきりに出てきます。そしてその喜びというのは、一つはっきりした意味が書いてあります。たとえば4節には、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」と書いてあります。つまり、ここに書いてある喜びというのは、神に向かってあげられている喜びの声です。神を信じて喜んでいるということです。礼拝において、神を喜ぶと同時に、またここで本当に自分が喜ぶことができるのです。それは礼拝がうれしいいというだけではなくて、この礼拝をすることによって自分の生活全部に喜びが与えられる、そういう仕方で私たちは礼拝をしなければならないのです。いつもニコニコしてはいないかもしれません、悲しんでいるように見えるけれども、本当に神による喜びに満たされているのです。それが私たちに与えられた信仰生活なのです。